豊臣秀長 超一流の補佐役・ナンバー2は目立たないこと - やる気倶楽部の活動日誌

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豊臣秀長 超一流の補佐役・ナンバー2は目立たないこと

トップを補佐したり、企業や組織のナンバー2と言われるひとが必ずいる.

補佐役・ナンバー2として成功し職務を全うした人は歴史を見ても意外と少ない。

鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟・義経

源平合戦の中では間違いなくナンバー2であった.

しかしトップに対する配慮不足が主な原因で失脚している。




室町幕府を開いた足利尊氏の弟・足利直義

当初は兄に従い大いに補佐した典型的なナンバー2であった。

しかしその能力の高さゆえ

尊氏の対抗馬として担がれ兄との間がギクシャクし始め

結局、争った末暗殺されている。




豊臣秀長、秀吉の腹違いの弟と言われている。

豊臣秀長

小一郎と呼ばれ成人近くまで尾張の農民として無学文盲で暮らしていた。

農村の中では争いの仲介役・世話係として人望を集めていたようだ。

秀吉が信長の家来になって出世街道を歩み始める初期に無理やり家来にさせられた。

秀吉がアクセルを踏み続けるなか

小一郎は常に縁の下の力持ちとして地道な支援を行なってきた。




武士になってから文字や学問を学び兵法も学んだ。

二十歳を過ぎてからの努力は如何ほどだったか。

後年、大和郡山の太守となって残した文字や文書は秀吉のそれとは比べ物にならない。

秀吉が近江長浜の城主になったころから羽柴秀長を名乗り一軍を率いるようになったようである。




秀吉の出世には、軍師の竹中半兵衛・黒田如水、そして加藤清正・福島正則などの豪傑、

石田三成をはじめとする優秀な官僚が力を発揮し逸話が多く残っている。

しかし豊臣政権を通じて常にナンバー2であったこの人、

豊臣秀長の逸話は非常に少ない。

豊臣政権の中枢で活躍し人望のあった人物にしては情報が非常に少ない。

トップの秀吉のためにあえて自分を消したとしか思えない。

ここにナンバー2、補佐役の価値を見る。





少ない情報から秀長の人物を見ると、

政治家としても軍人としても超一流で、その点では秀吉を大きく上回る。

余り知られていないようだが秀長が一軍を率いるようになり、

自らが将となっての実戦では一度も負けていない。

戦国大名のなかで一度も負けていないのは、この秀長だけである。

あの信長・信玄・謙信・家康も皆一度は敗北を喫し兵を引いている。




四国征伐九州征伐では大軍を率い統率して一点の隙もない戦を展開した。

長曽我部も島津も何もできなかった。

秀長の戦略は政治も軍事も常に安全を確保したときに思い切った行動をとっている。

決して無理はしないが、勝負時のタイミングを計るのが実に上手である。




そういう人の記録が非常に少ない。

ナンバー2はこれでなくてはならない。

手柄は全部トップのもの。

決してトップを望まず、トップを支えることに人生の喜び・やる気を感じる人生。

こういうモチベーションと実務能力を合わせをもった人物のいる組織は実に強い。




豊臣政権において、秀吉子飼いの大名や外様の大名までこの人を尊敬しやまなかった。

大和郡山では大和大納言として今でも名君の誉れ高い。

惜しくも50台半ばで病死した。

その後の豊臣政権内では疑心暗鬼・内紛・離反が引き起こされて凋落してゆく。




彼はどのような気持ちで天国から見ていたのだろう?

「出世欲や、物欲ばかりでは良い組織は作れまい!」

自分を歴史から消し去ることのできた「秘められた自信家」豊臣秀長。

私の最も好きな戦国大名の一人である。
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(担当:熊五郎)
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