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安国寺恵瓊、情報収集力と分析力のトップレベル外交官

毛利家の外交担当として力を発揮した僧・安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)

安国寺恵瓊

元々、安芸武田氏の一族で、毛利元就の攻撃で安芸武田氏が滅亡すると

家臣に連れられて脱出し、安芸の安国寺(不動院)に入って出家した。

その後、京都の東福寺に入った。竺雲恵心の弟子となったが

毛利氏が恵心に帰依していたことから毛利氏に仕えるようになった。




毛利元就の家臣時代は、大友宗麟との外交・織田家家臣の秀吉との交渉など

毛利家の存亡をかけた外交交渉を取りまとめている。

毛利氏が秀吉に正式に臣従する際の交渉も成功させ秀吉から賞賛されている。

その後秀吉側近となって四国征伐後、伊予和気郡に2万3000石を与えられた。

天正14年(1586年)の秀吉の九州征伐後は伊予6万石に加増され僧侶の身で大名となった。




恵瓊の最も有名なエピソードとしては毛利氏家臣:井上春忠に宛てた書面で

織田信長の将来を次のように予測している。


「信長之代、五年、三年は持たるべく候。

明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。

左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。」


現代語訳すると

「信長の勢いはあと3年から5年ぐらいは続くのではないだろうか。

来年あたり、朝廷から要職を頂けるぐらい勢いがある。

しかしその後は、仰向けにひっくりかえて、没落してしまうように思える。」

という意味だ。

本能寺の変


これは天正元(1573)年12月当時、日の出の勢いだった信長を

本能寺の変(1582年)の10年も前に長く続か無い事を予見していた。

信長の持っていた凶暴な部分を分析し

周囲の人間から反感・怨恨をかい敵をつくる性質によって

いずれ暗殺・裏切りが頻発すると考えたに違いない。

仮に明智光秀による本能寺の変がなくても

同じように誰かにやられていたのではないかと思う。




実際に信長の凶暴な面を列挙してみる。

・敵とはいえ朝倉父子の頭蓋骨で盃を作って正月の祝いを行なう
・寺社を焼き討ち皆殺し(比叡山や本願寺・一向宗徒)
・旧来の譜代家臣を突然追放(佐久間盛信ら)
・竹生島に参詣に行っている間に安土城から抜け出していた侍女たちを皆殺し
・果物のカスを捨てなかった侍女を斬殺
・不手際があり棚の下に逃げ込んだ茶坊主を棚ごと斬殺
・開城した降伏武将や兵士を騙しうち


これらの情報を遠く離れた場所で収集し正確に分析することができた恵瓊の能力には感服する。

外交交渉に長けていたことの証明と言えよう。

予想とはあくまで「想う」ことに留まるが、

予測は正確な情報から導き出される確信

恵瓊は確信をもって井上春忠に告げたのだろう。

現代の政治家たちも見習わねば。

ただ、関が原で西軍について処刑されたのはいささか老いたのだろうか?

(担当:熊五郎)
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