「無欲は大欲に似たり」無欲が利を産むもの 尼子経久 - やる気倶楽部の活動日誌

やる気倶楽部の活動日誌 ホーム » スポンサー広告 » コラム » 「無欲は大欲に似たり」無欲が利を産むもの 尼子経久

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「無欲は大欲に似たり」無欲が利を産むもの 尼子経久

尼子氏はもともと近江国・京極佐々木家の流れで

佐々木氏の領地:出雲国へ守護代として赴任してから発展をはじめた。

謀将といわれた尼子経久は出雲から山陰全土へ勢力を伸ばすなか
尼子経久

一度は主家から守護代から追われる。

後に下克上の典型と言われるように

主家を乗っ取って戦国大名として頭角をあらわした。



尼子氏は経久の孫:晴久の時代に山陰を中心として、

山陰・山陽八ヶ国(出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後)の

守護を務めた戦国きっての大大名になる。

後に大内氏毛利氏の圧迫を受け、

その拠点である月山富田城毛利元就によって落とされ、

月山富田城


時の当主、尼子義久は助命されるも事実上尼子氏は戦国大名から消えていく。



その後、山中鹿之助を中心とする忠臣「尼子十勇士」尼子勝久を担いで、

織田信長を頼り旗揚げしたが、結局、毛利氏によって潰されている。

※尼子氏が衰亡していく中、御家再興のために
 「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話は
 講談などによりよく知られる。


尼子氏全盛期を創出した経久についてエピソードが残されている。

公家によって著されたと推定されている『塵塚(ちりづか)物語』というものがある。

塵塚とは「はきだめ」のことである。

天文21年成立というから西暦でいうと1552年のことだから

経久が亡くなったあとに書かれている。

征夷大将軍は第13代足利義輝の時代で、

京(みやこ)では三好長慶が権勢を振るっていた戦国時代後期である。



「尼子伊予守無欲の事」という記事に、このことが記されていて

「ふしぎというもおろか(形容できないの意)なる人なりとぞ」とある。

経久は家臣が彼の持ち物を褒めると喜び、

どんな高価・貴重なものでもすぐにその家臣に与えた。

家臣たちは経久に遠慮して持ち物を褒めず眺めるだけにするよう努めたという。



ある時、ひとりの家臣がこれなら大丈夫だろうと、

庭の松の木を褒めたところ経久はその松を掘り起こして渡そうとした。

周囲の者が慌てて止めたため経久はいったんは諦めたが、

どうしても家臣に与えたくなり、その松を薪にして与えた。



謀将といわれた尼子経久は戦では鬼神の如く恐れられたが、

平時の生活の中では無欲で正直な武将だったようだ。

歴史を顧みると無欲な人が大きな利を得ることになることが多い。

尼子氏の全盛期は世界遺産に登録された石見銀山を支配するなど

経久の性格とは裏腹に大きな利がもたらされている。

これを「無欲は大欲に似たり」という。

紹介:
尼子経久―毛利が挑んだ中国の雄 (PHP文庫)尼子経久―毛利が挑んだ中国の雄 (PHP文庫)
(1997/02)
中村 整史朗

商品詳細を見る


(担当:熊五郎)
コメント
非公開コメント

トラックバック

http://yarukiclub.blog130.fc2.com/tb.php/260-f890b9fe

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。