戦国最強の僧侶 今川義元を育てた軍師:太源崇孚雪斎 - やる気倶楽部の活動日誌

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戦国最強の僧侶 今川義元を育てた軍師:太源崇孚雪斎

戦国時代、大名に重用された僧侶は数多い。

織田信長の影の軍師:沢彦宗恩(たくげん そうおん)

武田信玄の外交僧を務めた「心頭滅却すれば火も亦た涼し」で有名な快川 紹喜(かいせん じょうき)

毛利の外交僧で唯一大名となった安国寺恵瓊などである。

その中でも最も野心家で戦の先頭に立ったといわれるのが

今川家の軍師:太源崇孚雪斎(たいげんすうふ せっさい)である。

太源崇孚(雪斎)


雪斎は今川家の重臣の子で京都の建仁寺で修行していた。

そのとき駿河守護職の今川氏親から帰郷し、

五男方菊丸(後の義元)の教育するよう頼まれた。

駿河国善得寺で二人は師と弟子として修行し、

更に高度な教育を行うため、名を梅岳承芳と改めた義元を連れ

京都:建仁寺に入り、その後、妙心寺の名僧大休宗休の弟子にもなっている。



天文5年(1536)3月17日、今川家の当主今川氏輝が24歳の若さで急死した。

その上同じ日、氏輝の弟・彦五郎(二男)も死亡した。

長男・二男の突然の死は、いまだに謎である。

そこで今川家の家督相続をめぐり家中を二分する「花倉(はなくら)の乱」が始まった。

年長の玄広恵探(三男)が母方の福島一族とともに兵あげ、

これに対抗して雪斎は、梅岳承芳(五男)擁立の多数派工作を行い家臣団をまとめ攻撃に出、

恵探側の花倉城に総攻撃をかけ恵探は城を逃れ自刃し果てた。

今川義元


第九代当主となった今川義元は師僧であり軍師でもある雪斎の支えを得て領国経営を進め、

駿河国を東海一の富裕な国へと作り上げ、三河・尾張方面へと進出を図る。

三河の小豆坂合戦織田信秀の軍を破り、

三河松平氏を隷属させ竹千代(後の家康)を駿府へ人質とった。

一方で北の武田、東の北条との間で三国同盟を仕掛けるなど西方進出の後顧の憂いを無くした。

このとき武田信玄、北条氏康、今川義元を引き合わせている(善得寺の会盟

このような今川家の絶頂期、弘治元年(1555年)雪斎は駿河長慶寺にて没する。

享年60歳であった。


このあと雪斎の支えを失った今川義元は桶狭間の合戦で敗れ討ち死に。

今川家は急速に衰え、三河の徳川家康と甲斐・信濃の武田信玄の餌食となり滅亡してゆく。

今川家は必ずしも雪斎ひとりが支えていたわけではないが、

その死はあまりに大きかったようだ。

良いナンバー2がいる企業は強いがあまりに一人に頼る組織は

このような結末を迎える危険があるのは戦国の世も現代も同じではないだろうか。

※参考までに義元と雪斎を記述した書籍を紹介しておく
太原雪斎と今川義元 (PHP文庫)太原雪斎と今川義元 (PHP文庫)
(2010/05/06)
江宮 隆之

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(担当:熊五郎)
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