日本の諸葛孔明、天才軍師 竹中半兵衛 - やる気倶楽部の活動日誌

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日本の諸葛孔明、天才軍師 竹中半兵衛

竹中半兵衛重治、戦国時代を太く・短く生きた天才軍師、

日本の諸葛孔明とも言える稀代の英傑である。

竹中半兵衛


半兵衛重治は、天文13年(1544年)、

美濃国大野郡大御堂城(岐阜県揖斐郡大野町)城主・竹中重元の子として生まれた。

家督相続後は、菩提山城主となって美濃国の国主・斎藤義龍に仕え、

義龍が死去すると、その後を継いだ斎藤龍興に仕えた。



織田信長の美濃侵攻が激しくなる中、義龍はよくこれを防ぎ撃退していたが、

義龍亡きあとを継いだ龍興は凡庸で酒色に溺れ、

一部の側近を寵愛して半兵衛重治や重臣の西美濃三人衆稲葉良通(一鉄)安藤守就氏家直元(卜全)】を

政務から遠ざけるようになった。

このようなときに半兵衛重治の逸話で最も有名な稲葉山城乗っ取り事件が起こる。




半兵衛重治の逸話としてそれほど有名ではないが、

武田騎馬隊との長篠の合戦での逸話は、

軍師としての才能を如何なく発揮した典型である。

武田騎馬隊の一部が左側に移動したとき、秀吉は回込まれては一大事と焦り兵を動かそうとした。

冷静沈着な半兵衛重治は織田勢の陣に穴を開けるための陽動だと見抜き進言した。

焦った秀吉は半兵衛重治の進言を聞入れず迎撃のため兵を動かした。

半兵衛重治はあくまで反対し手勢と共に持ち場を離れず持ち場を守り続けた。

武田勢は一転秀吉が不在を攻め寄せたが半兵衛重治が守っている間に秀吉も急ぎ帰還し事なきを得た。

半兵衛重治の見立てが正しかったことが証明された瞬間である。

長篠の戦い合戦図屏風
※「長篠合戦図屏風」(犬山城白帝文庫所蔵)



竹中半兵衛は、羽柴秀吉の旗下、黒田官兵衛とともに軍師「両兵衛」として活躍し
黒田官兵衛

秀吉の天下統一に大いに貢献した。

戦国時代、黒田官兵衛が野心家の代表とするなら、竹中半兵衛は無欲の代表と言えよう。

※竹中半兵衛を題材にした小説は多いが、その中でも個人的に好きなものを
 紹介しておくので、是非、お読みいただきたい。

軍師竹中半兵衛 (角川文庫)軍師竹中半兵衛 (角川文庫)
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竹中半兵衛と黒田官兵衛―秀吉に天下を取らせた二人の軍師 (PHP文庫)竹中半兵衛と黒田官兵衛―秀吉に天下を取らせた二人の軍師 (PHP文庫)
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(担当:熊五郎)
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