平安末期からの名家、山名一族の行く末あわれ - やる気倶楽部の活動日誌

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平安末期からの名家、山名一族の行く末あわれ

山名氏は、応仁の乱の西軍総大将、山名宗全(持豊)で有名である。

将軍:足利義政とその妻:日野富子の不和から始まり、

山名宗全&細川勝元
※左が山名宗全(持豊) 右が細川勝元

管領:細川勝元を東軍の総大将として全国を二分しての大戦さとなった。

京に総勢27万人という大軍がひしめきあって争い、

応仁の乱


京はめちゃくちゃとなり、ここから戦国時代が始まったといってよいだろう。



もともと山名氏は、清和源氏の名門、新田氏の一族で、

山名発祥の地
平安時代末期から鎌倉時代にかけて群馬県高崎市山名町あたりを本拠として

山名氏を名乗ったといわれる。

山名系図

※山名氏系図



山名義範が源頼朝に従い、義経率いる平家追討の軍にも参加した。

その後、南北朝時代は、本家の新田義貞が南朝についたものの、

山名氏は、山名時氏が足利尊氏についたことで、

足利幕府成立後、幕府の重職に付くこととなり

山名氏清の時代には一族で全国66か国中11か国の守護職を占め、
山名守護国

「六分の一殿」と称されて権勢を誇った。



あまりの権勢に危機を感じた3代将軍:足利義満が謀略で

その勢いを削ぐことに成功し(明徳の乱)、

その後、山名氏は衰退する。

しかし6代将軍:足利義教嘉吉の変で暗殺されたとき、

足利義満&義教
※左:3代義満、右:6代義教

暗殺者の赤松満祐を討伐したときの総大将が山名宗全(持豊)で

ここから勢力を盛り返し、応仁の乱の西軍総大将になるまでに勢いを回復した。




しかし宗全(持豊)死後は急速に衰えていき、

山名豊国のとき豊臣秀吉によって事実上滅ぼされたが、

名家である由をもって家康に取り立てられ、

山名豊国

※山名豊国

江戸時代には豊国は家康から但馬村岡に6700石の所領を与えられ上級旗本となった。

大名待遇の交代寄合表御礼衆という家格に列され高家として存続した。

明治まで存続し男爵となったが、全盛期からみると哀れを誘う名家である。

しかしよく耐え抜いて命脈を保ったことは評価できるのではないか。

(担当:熊五郎)
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