佐久間盛政、命令違反で味方は自滅 - やる気倶楽部の活動日誌

やる気倶楽部の活動日誌 ホーム » スポンサー広告 » コラム » 佐久間盛政、命令違反で味方は自滅

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

佐久間盛政、命令違反で味方は自滅

佐久間盛政

佐久間盛政は、戦国時代後期の武将で、織田の家老、柴田勝家の甥にあたる。

柴田勝家


父は佐久間盛次、母は柴田勝家の妹と言われている。

勇猛で名を馳せたため「鬼玄蕃」の異名をとる。

父、佐久間盛次と信長の重臣、佐久間信盛とは従兄弟にあたる。




近江の六角氏を攻めた観音寺城攻めや越前・手筒山城(金ヶ崎城)攻めで武功をあげ、

叔父の柴田勝家が越前を得たときに配下となった。

加賀の一向一揆が終息した際、金沢城を与えられて、

加賀一国を任せられるようになった。

信長亡きあとも柴田勝家に従い、勝家と羽柴秀吉が対立した賤ヶ岳の戦いでは、

秀吉方の中川清秀の守る砦攻撃を提案し、勝家の反対を押し切り出陣する。

賤ヶ岳の戦い


勝家は、砦を落としたらすぐに帰還することを条件に許したが、

清秀を討ち取ると調子に乗って、命令を無視して深く敵陣へ進む。

琵琶湖を渡ってきた丹羽長秀桑山重晴と合流し盛政に対抗し、

そこへ岐阜方面から強行軍で戻ってきた秀吉軍により孤立し、

ついに柴田軍は敗退する。




盛政は、捕らえられたとき、「鬼玄蕃と言われた豪傑が、なぜ自害しなかったのか」と愚弄されると、

「源頼朝公は大庭景親に敗れたとき、木の洞に隠れて逃げ延び、後に大事を成したではないか」

と言い返したという。

秀吉は盛政の武勇を買って九州平定後に肥後一国を与えるので家臣になれと強く誘ったが、

盛政は柴田勝家に恩義があるので断ったという。

そして、結局、京の市中引き回しの上、宇治の槙島で斬首された。

勝家軍は、対等に戦っていたのに、盛政の命令違反が原因で瓦解してしまった。

命令違反で見方を自滅に導いたことはもちろん盛政の責任が大きいが、

それを予測できなかった柴田勝家の責任も大きいと言えよう。

(担当:熊五郎)
コメント
非公開コメント

トラックバック

http://yarukiclub.blog130.fc2.com/tb.php/431-f542e2af

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。